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Vol.04 2014/4/24

『完本黒蜥蜴』は4月下旬の刊行を目指しておりましたが、最終段階で造本仕様の一部に変更が生じたため、刊行日を5月中旬に延期することになりました。仕上がりの完成度をより高めるための変更とはいえ、刊行をお待ちいただいている読者の皆様には深くお詫び申し上げます。またこれに伴い本書の予約開始日は4月30日(水)とさせていただきますのでどうかご諒承ください。

 さて、前回の通信では『完本黒蜥蜴』の口絵のオリジナル銅版画について紹介させていただきましたが、もうひとつ今回の「完本」刊行で特にご注目いただきたいのが、乱歩の小説「黒蜥蜴」のテキストです。この小説は昭和9年(1934)に新潮社の大衆雑誌「日の出」に10回にわたって連載された後、同年12月に新潮社より刊行されました。しかし、乱歩のほかの大衆向け長篇小説と比べて格別スポットを浴びることはなく、この小説が屈指の人気作となるのは、約30年後の三島由紀夫による戯曲化まで待たねばなりませんでした。

 乱歩にとっては唯一の「女賊もの」であり、「黒蜥蜴」というユニークなキャラクターを創造して主人公に据えた意欲作でありながら、なぜ発表当時、一般からそれほどの人気を得られなかったのか。

 実はこの「黒蜥蜴」は、そもそも最初の刊本からして、連載分のテキストからかなりの削除が施されており、その後の刊本もこれを受け継いできたため、乱歩の意図した通りの完全な形で読者に届けられていなかったのです。

 連載分から削除されたうちには、前回までの梗概を乱歩自身の筆で、読者の便宜をはかりかつその回の導入部を盛り上げるべく、巧みにダイジェストしてみせた部分があります。これは大衆向けの長篇小説の連載の場合、いつも出てくる乱歩の得意技ともいうべきものですが、単行本化に当たってはこの部分は削除されるのが通例となっていました。となればこの削除は「黒蜥蜴」に限った話ではないのですが、今回の「完本」の解説で新保博久氏が指摘されている通り、「黒蜥蜴」においては本文中で確言されていない大事なデータが、この梗概部分にのみ記述されているという例もあるのです。そうなるとほかの連載長篇に右へ倣え式の機械的な削除は、物語の興趣を減じる結果ともなってしまいます。

 さらに「黒蜥蜴」には、もっと重大なクライマックスの場面でも削除がありました。黒蜥蜴が自らのコレクションを集めた恐怖美術館の「大水槽」の前で、誘拐した早苗さんに、水中に生きたまま投げ込まれる美女の「苦悶の水中ダンス」について滔々と語りかけるシーンが、何と2ページ分近くも削除されてしまっているのです。ここは黒蜥蜴が自らの美学の一端を披歴する大事な場面で、おののく早苗さんをサディスティックにいたぶるように残虐の美についての刺激的な言葉が連ねられているのですが、当局による発禁を恐れてか単行本ではばっさり切られ、短く書き変えられてしまいました。その後の流布本はすべてカット版によるもので、初出の通りに復元されたのは、新保氏が監修した2003年の光文社版全集が初めてのことでした。実に70年ぶりの復活だったわけですが、「黒蜥蜴」のテキストの欠落についてはまだ続きがあります。この全集の編集作業の過程で、乱歩家に「黒蜥蜴」の連載の切り抜きが残されており、そこに乱歩自身の筆で書き込みが加えられているのが発見されたのです。乱歩が単行本化されるときに直そうとして書き加えていたにもかかわらず、その後失念してしまったらしく、この加筆は初刊本には反映されませんでした。初刊本を底本にした光文社版全集でも同様に本文には反映されておりません。

 というわけで、乱歩の「黒蜥蜴」は、初刊以来、長らく著者の意図通りの形でテキストが提供されず、その真の姿が十全には読者に届かなかった「不運な傑作」と称されるべきかもしれません。

 今回の藍峯舎版『完本黒蜥蜴』は、初出の「日の出」の連載に基づいて、「大水槽」の章の削除部分はもちろん、従来の刊本では捨てられていた乱歩の筆になる梗概部分も初めて復元し、さらに連載の切り抜きに乱歩が加えた書き込みもすべて反映させた、文字通りの「無削除完全版」です。表記も執筆当時の時代の匂いを伝える旧字旧かなといたしました。

「日の出」の連載からちょうど80年を経て、今、「黒蜥蜴」はようやく乱歩の描いたオリジナルな形で読者の目に触れることになります。

 従来の刊本で「黒蜥蜴」をお読みの方にも、藍峯舎版であらためてこの「不運な傑作」の真価を味わっていただければ幸いです。

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